「二代目としての事業承継時の想いと経験」株式会社沖縄電子-宮城啓一社長

毎週日曜朝9時半から、FM那覇で放送中の『坂本憲彦のラジオ経営塾』。起業家の専門家、坂本憲彦がはじめての起業で成功するために大切なポイントをお届け。沖縄で起業したい人を応援するラジオ番組です。

今回は、株式会社沖縄電子代表取締役の宮城啓一さんをお迎えしています。創業48年の会社の二代目として、事業承継をした当初の苦労や転機、立て直すために行った改革、そして会社や社員に対する想いについてお伝えしています。

こちらの音声は、Podcastよりお聴きいただけます。

動画は、下記YouTubeよりご覧いただけます。

試練からのスタート

中田:今日はスペシャルゲストをお迎えしております。FM那覇からお届けしていますが、沖縄の社長さんをお呼びしています。株式会社沖縄電子の宮城啓一代表取締役です。

沖縄電子さんは1972年の創立、創業48年の会社さんです。電子技術の提供を軸に、現在防犯カメラの設置数は沖縄で一番と伺っています。

宮城社長は1975年生まれ、30代の時に会社を継がれて二代目として活躍されていらっしゃいます。

宮城社長よろしくお願いします。

 

宮城:ありがとうございます。よろしくお願いします。

 

中田:実は以前、宮城社長のプレゼンテーションを聞いた時に、これはぜひ出ていただきたいと思いお願いをしました。

坂本先生がいつもおっしゃる志の経営を行っている宮城社長ですが、今日は会社を引き継がれた時の経験や想いを軸に、いろいろお聞きしたいと思います。

 

坂本:大変な状況の中で事業を継がれたということで、今後事業を継がれる方の参考になればと思います。

 

中田:禰覇さん今おいくつでしたっけ。

 

禰覇:32歳です。

 

中田:宮城社長が会社を引き継いだ時がちょうどその年齢だったということで、傍からみたら順風満帆な環境でスタートされたんだろうと思われますが、実際の所はどうでしたか。

 

宮城:外から見ているのと実際に自分が経営者になるのは全然違って、自分の後ろに誰もいない、支えてくれる人もいない、経営者は孤独だということをよく聞きますが、突然それが来たという感じでした。

 

中田:準備万端の状態でスタートしたわけではなかったんですね。

 

宮城:そうですね。

 

中田:引き継いだのはお父様がおいくつの時でしたか。

 

宮城:72歳です。

 

中田:実は私、以前その時のお話をお聞きしたことがあるのですが、すごく大変だったということで、差し支えない範囲でその時の歴史を少しお聞きしたいです。

 

宮城:私はまだまだ未完成で、未成熟で、完璧な経営者ではなくて、学びながら経営をしているところです。私の実体験を踏まえながらお話をさせていただきたいと思います。

私は32歳の時に会社を継ぎました。うちの会社は6年前に8億円近い売り上げがありましたが、バブルの崩壊とも重なって売り上げがどんどん減って、3億5千万円まで下がっている状態でした。

8億円まで会社が成長していくと、資金が足りなくて銀行から借り入れをします。その担保が何かというと、経営者の土地、家です。私は二代目で父が創業者です。つまり、両親の家が担保になって、会社の運営資金に回っているというのが当時の状況でした。

毎年のように売り上げが落ちていき、借金と今後の見通しを立てていく中で、父も70歳を超えていたので精神的にきつい状態が続いて、会社に出て来られなくなりました。

そこで誰かに継いでもらいたいとなった時に、父の右腕だった社員もいましたが、これだけの借金を背負うということは借金の連帯保証人にならないといけないんですね。それだけの覚悟をもってできる方はいませんでした。

それで急遽私に白羽の矢が立って、もうやるしかないという状況でした。家も土地も担保に入っているんですよ。私がやらなかったらそれを全部取られるんですね。

 

坂本:宮城社長はその時会社で働かれていたんですか。

 

宮城:会社でずっと営業をしていました。

 

坂本:そこから急に会社を継ぐという話になったんですね。

 

宮城:そうですね。本格的に会社に戻ったのが26歳です。20代前半は教材の営業をしていました。24歳の時にワーキングホリデーでシドニーに行って、帰って来た時に仕事がなかったのでアルバイト感覚で沖縄電子に入って、そこから正社員になったという感じです。

 

坂本:もともと継ぐ気はあったのでしょうか。

 

宮城:なかったです。

 

坂本:それが、そういう状況になって仕方なくみたいな。

 

宮城:そうですね、ただ正式に26歳で営業として正社員になって、いろいろなお客様とやり取りをして自分の成績も上がっていく中で、会社をこうした方がいいとか生意気に言うタイプの社員でした。自分の親父がやっている会社なので、何とかもっと良くしたいという想いは強い社員だったと思います。

 

坂本:徐々に受け継いでもいいかなという想いはあったんですか。

 

宮城:そうですね。

 

承継当時の苦労

坂本:お父様は会社に出て来られなくなってしまったんですね。

そういう大変な時期に振られて大変だったかと思いますが、その後はどのように立て直していかれましたか。

 

宮城:立て直すどころか上がったり下がったりの繰り返しですね。

何とかしないといけない、売り上げを上げる、借金を返す、ということが経営の目的になっていました。そのために社員がいて、そのために商品があって、そのためにお客様とも関わっていたという感じです。

 

坂本:全部主が借金だったわけですね。

 

宮城:売り上げを上げる。みんなそこに一致団結していると思っていました。

 

中田:私たち地元の人からすると、沖縄電子さんは安定的な老舗の会社さんというイメージで、防犯カメラではパイオニア的なところだったので、外から見たら全然想像がつかないところですよね。

打ち合わせの時に、宮城社長はその時は震えあがりましたとおっしゃっていましたけれど、聞いている私たちも震える話だなと思いました。

確かに後に引けない部分はあったと思いますが、その時に志を支えたものはなんでしたか。

 

宮城:今振り返って客観的に思うのは、両親がつくった借金を自分の借金だと思ったことだと思います。そこに反発みたいなものはなかったですね。なんで俺だけこんな借金を背負わなければいけないんだというのはあまりなかったです。

 

中田:最初は反発や落ち込むところから入る中で、そこをプラスに転換されたことは素晴らしと思います。

 

坂本:普通はなかなか思えないですよね。親がつくった借金をなんで俺が背負わないといけないんだと反発する人が多いですが、それをご自身の責任と捉えられて、返していこうと思われたことはすごいと思います。

その後会社としてはどのような経緯をたどっていかれたのでしょうか。

 

宮城:私は最初、決算書の見方が全く分かりませんでした。なので、セミナーに何回も通って、2年ほどかかって決算書の読み方を勉強しました。

 

中田:並大抵のことではないですよね。そうすると、きっと1日24時間365日ずっと仕事をしているような感じですね。

 

宮城:今もずっと頭の中はそんな感じです。親父の会社、沖縄電子をずっと見てきたので、この会社の仕事が好きなんだと思います。

 

仕事との向き合い方を変えた学び

中田:宮城社長のプロフィールやあいさつの中に、“お客様と感動を分かち合いたい”という言葉があります。これは引き継いだ当時はなかなか出ない言葉ではないかと思います。

今、感動をお客様とも社員さんとも分かち合える宮城社長だと思いますが、印象に残った転機や学びはありましたか。

 

宮城:自己啓発セミナーに出たり、本を読んだり、コンサルの先生に学びをもらいに行ったり、いろいろなことをしてきました。

その中で、これまでは“利益が出て、成果が出て、社員やお客様が幸せになる”という流れの考え方だったが、“幸せを感じるから利益が出る”という考え方にパラダイムが変わった瞬間がありました。この学びと出会って、全てが変わっていきました。

 

中田:幸せを感じるから利益がある、これは意外と逆の発想が多いと思いませんか、坂本先生。

 

坂本:どうしてもみんな目先の利益で、お金を稼いだら幸せになると思ってやっているけれど、お金を稼いでも全然幸せじゃないみたいな。お金はいくら稼いだら幸せで、いくら以下だったら不幸せなのか分かりにくいんですよね。

なので、今おっしゃっていたように、まず自分が幸せを感じて、幸せな状態で仕事をしているとそれが結果的に利益につながってくるのかなと思います。

 

人事制度改革

坂本:ちなみにその幸せを感じるためにされたことはありますか。

 

宮城:まずはやりがいですね。なぜ沖縄電子に入ったのか、どんな仕事がしたいのか、どこに興味・関心があるのか、そこを面談の中で聞きだしてその分野に携わってもらえるように場を提供していく。そのポジションで自分はどのように成長していきたいのか、目標を設定してもらう、そこと給料が連動していく。やりがいと経済的な豊かさが一致していく仕組みを作るところです。

 

坂本:人事制度から全部作り直していくかたち。社員さんのやりたいことを引き出してそれを給料に反映できるかたちでルールを作られたことはすごいと思います。

社員さんから反発はなかったのでしょうか。

 

宮城:ミーティングの時間が増えるので、それよりも営業に回った方がいいんじゃないか、現場に回った方がいいんじゃないかという意見はありました。でも、目標や計画がない中で動いても仕事をする時間は限られているんですよね。その人の人生の時間も限られている中で、目標に一直線に行った方がいいと思うんです。そこに対して一緒に計画を考えてく、その前準備の時間が大切だということを一緒に話し合いながら時間をどんどん作っていきました。

うちの場合は会議が多いです。

 

坂本:ちなみにどのような会議ですか。

 

宮城:各チームが週に1回プランニング、リーダーだけの会議も週に1回あります。全体での会議が月に1回、土曜日に朝9時から夕方18時までみっちり会議をします。

 

坂本:全社員が集まる会議を1日まるまるやるんですか。

 

宮城:やります。

 

坂本:それこそ社員さんから不満は出なかったんですか。

 

宮城:今はないです。

 

坂本:月1回の全体ミーティングではどのようなことをお話されますか。

 

宮城:沖縄電子の土台にどういった文化があるのかを僕からメッセージをして、もっと沖縄電子の文化をシェアしていくためにはどうしたらいいかをみんなで考えてもらいます。

プロジェクトチームが立ち上がったり、文化を作っていくチームからリファラル採用のチームが立ち上がったり、またそのチームで個別でミーティングをやっていきます。

 

社員との信頼関係の育み方

坂本:文化や歴史を毎月やるわけですね。みんなで共有してどんな変化がありましたか。

 

宮城:まず信頼関係を作るためにはどうしたらよいかというところから考えて、決算書の数字をオープンにして情報を開示しました。特に社員が不信をもつのが経営者の交際費です。私はきちんと説明できるものしか使いません。これも全部オープンにしています。

今利益はこれだけ出ている、自己資本比率がこうやってあがっていく、自己資本比率は40%以上を目標にしている、なぜならみんなが何かあっても安心してずっと継続できる会社にしていくため、まずはここをしっかり作っていこう、同時にみんなの経済的豊かさも実現していくためにこれだけボーナスであげていく、という目標を全部見せて、そうすると信頼関係は生まれてくると思うんです。

 

坂本:目標や接待交際費は、中小企業の社長さんは見せるのが嫌だったり、会社と個人が一緒になっていたりしますが、その辺もオープンに。

最初は数字を全部オープンにすることは勇気がいったのではないでしょうか。

 

宮城:僕がラッキーだったのは赤字続きだったので、削らないといけないところはしっかり削る、最初にそういう習慣が身に付いたことだと思います。

 

坂本:そこもみんなに納得してもらって、削るところを削るみたいな。

 

宮城:30歳で、若くて正義感が強かったので、なあなあになっているところを削っていかないといけなかったという。運がいいと言えば運がいいですよね。

 

坂本:その後利益が出だしてからも、継続して全部オープンにしているということですね。

これはなかなか他の中小企業の経営者さんはできないところだと思います。

 

宮城:経営者も自分の資産を担保に出しているので、利益を出して、ちゃんと報酬は受け取らないといけないと思います。そこを公正にやっていけるようにしたいと思ったんです。僕の次の経営者は社員から出ていただくので、そういう堂々と経営できる状態にして継ぎたいですね。

 

坂本:大事なところですよね。経営者が社員に後ろめたくなっていると社員に言いづらい部分もありますよね。これだけオープンにしておけば、社員さんとしても一緒に頑張ろうとか、数字が分かると経営者目線が持てますよね。

 

宮城:読めない社員もまだまだいますが、読める人は質問もしてきます。

 

中田:引き継いだ当初は決算書も分からないところから勉強を始めて、人事制度や会社の仕組み作りもしっかりされ、今やっと15年目に届くところですもんね。

そんな宮城社長には次回もゲストとしてお呼びさせていただく予定です。次回も楽しみにお待ちいただけたらと思います。

宮城社長、坂本先生、禰覇さんありがとうございました。

 

宮城坂本禰覇:ありがとうございました。

次回:【第93回】坂本憲彦のラジオ起業塾「「組織作りと人材育成に一番大切なのは信頼関係の強さ」株式会社沖縄電子 宮城啓一社長」