「人生は現役を引退してからが面白い」中村静雄氏
あなたが本当にしたかったことは何ですか?
年金に頼らない生き方を目指し、
自立する高齢者を支援するために、
お金、健康、孤独、相続問題に対処する
総合的な実践型企業ライズアップ株式会社代表取締役で、
五十歳以上限定の「夢実践塾」の主催である中村静雄氏による講演会のご紹介です。
「人生は現役を引退してからが面白い」と六十四歳で起業し、
年齢を重ねてからも生き生きとアクティブに活動する
中村氏による同世代の仲間たちに贈るメッセージです。
「人生は現役を引退してからが面白い」中村静雄
動画は、こちらのです。
(真ん中にあるサンカク(▲)のマークをクリックしてください)
あなたが本当にしたかったことは何ですか?
現役を引退してからでも夢を持ち、自分の夢に向かって歩く方法があります。
私は実は62歳で新しいことにチャレンジし、64歳で起業しました。
64歳で会社を起こしました。私だけでなく、
私と同じ60代の仲間や、70代、80代の先輩たちも、
年齢を重ねてから情熱を持って、自分の夢に向かって歩いている人がいます。
どのようにして年齢を重ねてからでも、
自分の夢に向かって情熱を持って歩き始めることができるのでしょうか?
ちょっと手を上げて頂きたいんですけども、
今日ここに40代の人たちはどのくらいいらっしゃるでしょうか?
かなりいますね。
20歳の誕生日から40歳の誕生日まで二十年間ありました。
社会に出て、社会経験を積みながら、今や社会の中枢になってきています。
この二十年間長かったでしょうか? 短かったでしょうか?
50代の人はどのくらいいらっしゃいますか?
あんまりいらっしゃらないですね。
30歳から50歳までの二十年間、
社会の中枢として、家庭では大黒柱として
休む間もなく働いてこられたことと思います。
この二十年間長かったでしょうか?
短かったでしょうか?
60年前、日本人の平均寿命は50歳でした。
そして今、80歳を超えています。
医学の進歩と科学技術の進歩、文化も深まり
30年という新しい期間を獲得しました。
60歳、65歳の人たちもまだ二十年間あります。
この二十年間をワクワクしたい時間にしたいと思いませんか?
愕然とした老後の生活設計
実は私は、60歳の還暦の日、老後の生活設計を再設計したんですけれども、
年金には頼れないことがわかり、愕然とした経験があります。
私は1946年生まれです。
団塊の世代は1947年から48年、49年の三年間で
806万人が誕生しました。
健在な彼らは今、全員が65歳以上になりました。
ですから、日本の人口構成は4年に一人が65歳以上になっています。
この会場でも65歳以上の人が本来であれば
4分の1ぐらいいらっしゃるわけですよね。
学校時代を終えて、最初に入社したのがIBMです。
その後小さなメーカーに転職して、最後の八年間を社長として過ごしました。
58歳の時に退職を願い出て辞めました。
働き過ぎですね。 二年間はゆっくりして、
60歳になった時、還暦の日に、老後の生活の設計をするために年金を確認しました。
当時は年金は社会保険庁に聞いても、まだわからない時代でした。
初めて計算して愕然としました。
支給額が足らず、病気にはなれない、娯楽も抑えなければいけないなるべくといいますか、
どうしても不慮の事故にも遭わないような工夫をしなければいけない。
しかも年金制度自体が、確たるものではないことに気が付きました。
当時から支給額がもうすでに二回下がっています。
年金の基金、年金基金にも入っていたんですけども、
年金基金は今年から廃止になりました。
もし、私がこれからお話しすることをしていなければ、
当初予測していたとおりの困ったどうしよう。
なんとかしなければ、そういう思いが空回りして、
このままきていたかもしれません。
当時考えたことは、今思うと短絡的だったのですけれどもまず、
ハローワークに行きました。
就職活動ですね。元気なうちは働こうという気持ちで
ハローワークに行きました。
しかし、もちろんことごとく断られ面接にも行けません。
そのようなことがあって、さすがに私も忍耐強いほうなのですけども、
さすがに腹が立ってきて、
最後はあてもなく、もう、雇われることはやめた。
「自分で稼ぐ。」というふうに気持ちの中が決まっていました。
学ぶことに年齢は関係ない、全力で走り抜けるタイミングを見逃さない
そこで立てた目標が
頭がしっかりして、手と指が動く限り、たとえ体が動かなくなって
寝たきりになっても、収入の道が止らない仕組みをつくるという目標を立てました。
これならば体が衰えていても、収入が途絶えないそういう方法がないか、
ということを一生懸命考えました。
なかなか思いつかないんですけど、ふと身近に見つけました。
これだと思いました。
コンピュータとインターネットを活用した
ビジネスをなんとか仕組み作りできないか、
そういうふうに思いました。
ただし、なかなか思うような知識や技術が身についていません。
そこで独学で始めたんですけれども時間がかかりました。
1年過ぎ、1年半過ぎ多少のお金は入ってくるんですけれども、
かけた時間にかけては入りが少ない、
これでは寝たきりになったら、とても無理だということで、悩みました。
当初、知識と技術の不足を認めて受け入れてくれるメンターがでてきました。
彼らに教わりました。
わからないことは若者から教わりました。
これはいまだに振り返って大切なことだと思うんですけど、
学ぶことに年齢は関係ない、そう思います。
新しいことにチャレンジするたびに、若い人たちが力を貸してくれます。
若い人たちにものを訊くことを高齢者は壁に思わないこと、
これが重要なことだとずぅっと最後まで、今まで、そう思います。
必死に頑張りました。
彼らの言言うとおりに何でもやりました。
そうすると今度は5ヶ月目から売り上げが上がるようになりました。
前は独学で1年以上かかったんですけども、
今回は5か月目から売り上げが上がり始めまして、
ちょうど1年過ぎた時には1,500万円の売り上げが上がっていました。
これは若い人たちのおかげだと思います。
彼らは分け隔てなく私にも教えてくれるし、
最近では、仕事だけでなく、遊びや飲みに行ったり、
いろいろなお話をするような楽しい時間を過ごしています。
これの成果はやがて取材を受けるような形で現れてきました。
たとえば、リクルート社のアントレという雑誌があるんですけど
ご存知でしょうか。
はい、アントレでは自分をあきらめない生き方という特集が
あったんですけども、
そこで特集の取材があり掲載されました。
また、本を出版することが出来て売れ行きも好調で著者の仲間入りをすることができました。
大きな書店さんではサイン会や講演があり、
やがて講演の依頼が増えてくるようになりました。
これの要因は二つあって、
1つは若者と若者のいいうことをよく聞いて、
素直にやってみること、それが一つ。
もう1つは大切なことだと私は思うんですけれども、
私はウサギとカメの話はご存知ですよね。
私は振り返ってみると、カメではなくてウサギだったなと、
よく昼寝モするし、怠けるし、ですけれども、
いざここぞという時は全力で走り抜ける時、
そのタイミングをよくわかり、そのタイミングでは全力で走り抜けることができた。
それが1つの大きな要因かなと思っております。
なかなか難しいことですけれども、
昼寝をしたり、朝寝坊したりしながら
エネルギーをチャージすればここぞという時よく判断して、
そこは全力で走り抜ければいいと思います。
人生はマラソンではなくて、短距離走の繰り返しだと、
私は今でもそう思っています。
好調な流れと混在する満たされない心の隙間
このような好調な流れに入ったとき、
もう1つありがたい効果があることに気がつきました。
私の両親は父が98歳、母が94歳です。
一緒にいなければならない時間がだんだん増えてきています。
もし、あの時ハローワークで運良くか運悪くか
再就職していたら深夜母の傍にいることはできなかっただろう。
今、私はビジネスをしながら介護をする。
あるいは父と母の傍にいながらビジネスを続けることはできる。
これは最初にひらめいたコンピュータとインターネットの
おかげだなというふうにつくづくそう思っています。
ただ、売り上げが上がりながら好調さが続いていても、
なんとなく心の中にこれが俺の仕事だというような満足感の
ようなものがなかなか芽生えていないというか、
ちょっと心にポッカリ穴が空いたような感覚を持つようになりました。
始めの目標には到達しました。私は寝たきりになっても、
たぶん収入はまぁ額はいろいろあるでしょうけれども、
多少の額は入ってくる仕組みを持ちました。
そういった意味では精神的に安定しましたけども、
これが残りの二十年間続くのかという時に
なんとなくちょっと心の隙間を感じる。
心にポッカリ穴が空いた何か満たされないものを感じるようになっていました。
毎日が売り上げ、利益、これはこれまでの現役時代五十八歳で辞めた時の、
その前の8年間、10年間の生活と同じじゃないか。
責任の度合いは自分のことだけなので薄いのですけれども、
やってることは同じじゃないかな、というふうに感じました。
もっと売り上げ、もっと利益500万、800万、1000万はどこに際限があるのか。
そのようなところに、なんとなくこれでいいのかなという気持ちが芽生えていました。
若い人たちが気づかせてくれた夢を実践するための3つのステップ
その頃は私に教えていた若いメンターたちとも
一緒に仕事をするようになっていました。
その日も一緒に仕事をしていたお昼休みでしたけども
メンターの一人がこういいました。
「みんなひとりひとり夢を語ろうよ。」
私はハッとしました。これかなと瞬間思ったんですけども、
周りは20代、30代の若い人たち6人です。
私はその時63歳でした。ですから遠慮といいますか、
私は「もう…」といいとかけたら、彼はすぐいいました。
「若い時の夢を聞かせてください」
たぶん、彼は私の夢を話させたかったのではないかなと
私なりに解釈しているのですけれども、
彼は忘れているかもしれませんけれども、
私は若い時に大きな夢がありました。それを公開しました。
忘れていた頭の片隅からほじりだすような喋り方でしたけども、
ワクワクしながら話しました。
話し終わってでも、
もう、ずぅっと前の今となっては大きすぎる夢になったけれども、
と言いかけたら、もう一人の若いメンターがすかさず言いました。
「その夢、今からでも遅くないですよ。できます。やりましょ。」ってハッキリ言いました。
私は言ったばかりなので、そうかなという気持ちですよね。
でも、昔見た考えた夢なので、
「できることならやりたい。やりたいな。でも、大きすぎるな。年だし…。」。
何か自分で処理しきれない、モヤモヤしたものが続くようになりました。
これが、「できます。やりましょう。」と言われた言葉が
私の人生の第2の転機です。
あの言葉がなければいまだに売り上げ、年金に上乗せする程度でいいから
寝たきりになっても稼げるという目標で始めたビジネスが
際限なく追いかけていたかもしれません。
私はその後の人生はこの夢を語ったことで
もっとワクワクした人生“になったらいいな。
“ワクワクした時間“が自分の毎日になったらいいなというふうに、
その時初めて思いました。
そこでなんとかしよう。
この夢が出来るかできないかちょっと設計してみよう。
そういうふうに思いました。
どうやったらいいか、
その時やったことが3つのステップです。
まず、自分の資産を棚卸する、
「私は何を持ているのか」ということですよね。
その資産を全部自分のフィルターを通さずに
正直に全部出してみようと思いました。
その次に、その資産のうえに、自分が語った夢をかぶせてみる。
そうすると、そのかぶせて自分の資産が
その夢の上に出てくるものであれば、
その夢は、たとえば“好きなこと“、“興味があること“、で
あることがその夢の上に出てくれば、
私の夢は「興味があってワクワクするもの」になるんじゃないかな、
そういうふうに考えたわけです。
で、3番目に正当にどんなものが挙がってくるか、
きたのかを判定することでした。
資産の棚卸とは私は50代から80代の高齢者のグループを主催しているんですけれども
そこでのモットーの1つにこういうのがあります。
夢を語るには「年を重ねた高齢者こそふさわしい」というのがあります。
そのわけは長い人生を重ねた高齢者こそ
誰にも負けない人生の経験量の豊富さと学んで得た知識の量と
身につけた技術があるはずです。
自分で評価していなくても、
「他人がその知識教えてください。」、
「その技術貸し手ください」といわれる知識だったり
技術だったりするかもしれません。
それを正しく書きだして、
自分のもし資産が社会から得た資産と重なって
社会に還元することが出来れば、
それは残りの二十年間は社会貢献することになるのではないか。
そういう意味のモットーです。
そこで、棚卸の方法です。
これは私がビジネスを起業した時にやった最初のステップなんですけれども、
ブレインダンプという方法であらゆるものを自分の紙の上に書きだす作業です。
それを自分の資産としてプラスの資産、マイナスの資産、
ありますけども、すべて項目を設けて、
下にすべてを書き出していくという作業です。
たとえば“好きなこと“、“嫌いなこと“、“苦手なこと“、“興味があること“、
それから、まっいろいろですけど自分の持っている“資格“とか、
“自分の性格“とか、“自分が思う性格“、
“仲間が中村さんはこういいう性格“だという
“性格をすべて書き出す“ということですよね。
そういうふうにして“書き出した資産“。
たとえば書き出す時のコツがあります。
自分で思いついたものを書く時に、
自分で判定して棄てないことですよね。
思いついたものはすべて書き出す。
あとでどうせ、判定する時間があるので、すべて書き出します。
それから、英検であれば1級じゃなきゃ書けないということではなくて、
5級を持っていれば5級と書きます。
そのようにして、自分、誰に見せるものでもないので、
そのようにして紙の上にすべて出すということですね。
その上に夢をかぶせます。私も夢をかぶせました。
そのかぶせる作業というのは、
目的はこの夢に向かって歩き始めたら自分が夢中になれるか、
それからできれば、この夢に向かって歩き始めると、
社会からの応援があるか、そういったことがもしあれば、
私はこの夢に向かって歩き始めようと決意していました。
そこでかぶせました。浮き上がってくるのは私の好きなこと、
興味があること、やってみたかったことです。
そうして、社会的なニーズもあることに気が付きました。
そして、決断した私の夢はこれです。「自立した村」。
本当に必要なものがわかった東日本大震災
私は自立した村の建設に踏み出すことにしました。
好きなことだし、興味があることだし、
やりたいことの一つでもあるし、昔から夢見ていたことだった。
これをここに踏み出せば、たぶん私はこれからの時間がワクワクして楽しい物になるだろうと
、そういうふうに判断しました。
しかも、私が20代の時に考えた夢が六十代になってから
大きくクローズアップされるようになっています。
地球環境を大切に。エネルギーは化石燃料から自然エネルギーに、
再生可能な自然エネルギーを使おうじゃないか。
また、食料の安全志向、健康への志向となっています。
もし私があの二十代の時に始めていたら、
たぶん私はもう大きな村の村長になっていたかもしれません(笑)
この夢を実行すれば社会からの応援もあるだろう、
というふうに判断して私は夢に入ることにしました。
事業計画をつくる、深く細かく書きだしました。
しかし、まだまだ机の上の作業だったことに気が付きました。
東日本大震災が起こりました。あの日をきっかけに、
私は実際に踏み出すことにしました。
みなさんも経験があると思います。お金を持ってスーパー、コンビニに行きました。
水がありませんよね。棚から商品が消えていましたよね。
あの時私は、お金が役に立たない。何のためにお金を稼ぐのか、
そんなにお金を持っていて何のために、物がなければ交換できないじゃないか、
そういうふうに心底思いました。
大切なのはお金を交換するその先のものです。
食べ物、便利な物、様々ですけれども、
自立した村では生きるのに必要な物から始めていきたいと思いました。
将来のモデルとなる「自立した村」建設へ向けて
自立した村とは誰にも頼らず、
自分たちでまかなうことを目的として建設している村です。
生まれてから死ぬまで一生をその村からたとえ出ないとしても、
その村で完結できる、一生を完結できるシステムを持った村。 そ
れをつくりたいと思います。
介護施設もつくりたいです。病院もつくりたい、
教育施設もつくりたいです。
もちろん食料は無農薬で、お米も作り、野菜も作り、
安全な食料を作ります。自分たちのためにですね。
エネルギーは再生可能な自然エネルギー、施設に適切な物を使いたいと思います。
そのような自立した村です。自立した村は、
たぶん私の目の黒いうちは完成しないと思います。
あの時、夢を語ろうよ、といわれた時は、
そのために今さら今となっては、という思いでした。
しかし、もう一人のメンターが「やりましょう。」という若い人がいるのであれば
、私はその道筋をつけるだけでも、
毎日の時間がワクワクするのであればいいなとそういうふうに思います。
自立した村ではお金がいらなくなるかもしれません。
今、みなさんの価値基準として、
お金は大きな位置を示しているかもしれません。
けれど、この村が完成すると価値が大きく変わるかもしれません。
将来のモデルになるような村をつくりたいなぁ、というふうに思っています。
失敗は一つのデータ
また、私のメンターたちは若い人が多いんですけど、
無農薬、無農薬で肥料を使わない自然農法を作る若い先生も、
やはり四十代の若い農家の人になりました。
思うと、こういう人たちと話すと時間が経つのを忘れて
お金を稼ぐのも楽しいですけど、こういう話をしていると、
気持ちが充足するような楽しいワクワク感があります。
この人たちが私にいいました。
私は自然農法は勉強ばっかりして机の上で本を読むと
お百姓さんから叱られるような感覚があります。
「素人が何いってる。雑草取りどうする。そんなものはできるはずはない。」と
いうような意見が多いですよね。
本も非常に厳しいことをいっています。
だけど、彼らは私にいいました。
「自然農法っていいうのは自然の変化にあわせて、
生き物が自然にあわせようとする、
そのサポートをすることが私たちの役目だと思います。
だから中村さんも同じような試行錯誤が続いていくでしょう。」と彼はいいました。
ビジネスも同じでした。
思惑、予定こういう方法だったらこういう結果が出るだろうという計算で作業をします。
だけど、思い通りにいくのはまず、100のうち90くらいしかありません。
そこをどう対処するか、これが彼らのビジネスの私のメンターも同じ感覚です。
失敗は一つのデータそれは失敗ではなくて、
次はその選択をしない選択が手に入ったと思えばいい。
思い通りにいかない自然が相手だから、
違う結果が出たらその時対応すればいいんじゃないですか」というような彼らの意見でした。
そうすると「今まで机の上で勉強していた素人が何いってる。
そんなものできるわけがない。
これは難しい農法だ。何とか農法だ。云云」っていうのが馬鹿みたいな感じになった経験があります。
夢を語るには人生を重ねた高齢者こそふさわしい!
若い人たちが教えてくれること、学ぶことに年齢は関係ありません。
私は若い人たちから教わることがたくさんあります。
夢を語るには人生を重ねた高齢者こそふさわしいと思います。
完璧な人生を完璧にしようと願っているわけではありません。
ワクワクした人生になればいいと思います。
最後の二十年は他人の基準にあわせてではなくて、
自分の人生にしたいと思います。年齢を重ねてからでも夢に向かって歩くことが出来ます。
あなたが本当にやりたかったことは何ですか?
一歩踏み出して想像以上の未来を!ありがとうございました。
まとめ
還暦からの人生の歩き方を考えた時、
これまでの人生の中で今が一番輝いていると感じることができたら
どれだけ素晴らしいことでしょう。
年齢を重ねてからも最後まであきらめずチャレンジし続け、
仲間と共にワクワクしながら毎日を楽しくエンジョイする姿を見せれば、
きっと若い人たちにも未来への希望が生まれるはずです。
一歩踏み出せば、自分の夢に向かって歩くことが出来ます。
人生経験を重ねた高齢者だからこそ、夢を語るにふさわしい存在なのです!